コロナ(感染症)について

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感染症と宗教の長い歴史(転載可)

仏教講座講師の正木先生が今回のコロナ騒動に関係する文章を書いてくださいました。少し長いですが、ぜひお読みください。(転載可です。こちらに連絡不要ですので、ご自由にお使いください。)

感染症と宗教の長い歴史                    

                     宗教学者 正木晃

 

致死率について

 新型コロナウイルスによる肺炎が世界中をゆるがしています。全地球的な規模で人と物の往来が禁じられて世界中が鎖国状態になり、経済にも甚大な影響をあたえています。

 ほんの少し前まで、こんな事態になるとは、誰も予想していませんでした。ネット上には「こうなると思っていた!」とか「だから、言ったじゃない!」的なことも書かれていますが、どれも具体性はなく、所詮は後知恵のたぐいです。少なくとも、政治や経済の専門家が具体的な警告を発していた形跡は見当たりません。

今回の新型コロナウイルスによる肺炎の致死率(死亡症例数/感染症例数)そのものは、地域によって大きく異なりますが、全世界の平均的な致死率が5%を超えることはなさそうですので、感染症としては決して高いとは言えません。過去には致死率がはるかに高い感染症が、いくたびも人類を襲っています。

ほぼ100年前の1918年1月から1920年12月にかけて、世界中を恐怖におとしいれたスペイン風邪は、当時の全人口の4分の1が罹患し、最少で1700万人、最大では5000万人が生命を奪われています。アメリカでは平均寿命が12歳くらい低下したそうです。

 日本でも大流行し、最新の研究では45万人から48万人もの方が亡くなっています。このころの人口は5600万人くらいですから、現在に換算すると、100万人もの死者が出たことになります。

 スペイン風邪の病原体はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)でしたが、それが判明したのは10年以上も後の1933年で、当時はまだ不明のままでした。ちなみに、このときのインフルエンザウイルスは、それまで人間は罹患しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、人間も罹患するようになったことがわかっています。つまり、当時の人々にとっては未知の感染症(新興感染症)であり、誰も免疫をもっていなかったために、大流行したと考えられています。この点は、今回のコロナウイルスと同じです。

 近年の例をあげれば、2002年11月16日に、今回と同じように、中国南部の広東省で発生したSARS(サーズ)コロナウイルスによる全身性の感染症(重症急性呼吸器症候群)の致死率は14~15%に達していました。

 2014年2月からギニア、シエラレオネ、リベリアなど、西アフリカの諸国で流行したエボラ出血熱は、感染疑いの例も含め28512人が感染し、11313人が死亡したといいますから、致死率は40%前後もあったのです。原因は野生動物を食べたことにあるようです。

 まだ確定はしていませんが、今回の新型コロナウイルスによる肺炎はコウモリ、SARSはハクビシン、エボラ出血熱はコウモリが疑われています。HIV(エイズ)も、サル→チンパンジー→人間という説があります。すでに述べたとおり、スペイン風邪も鳥インフルエンザに由来していますから、動物たち、とりわけ野生動物たちとのかかわりは、ひとつ間違えると、人類全体に致命的な脅威をもたらす可能性をつねにはらんでいます。

 

天然痘の恐怖

歴史をさかのぼると、凄まじい事例がいくつも見出せます。天然痘(疱瘡)の致死率は、平均で20~50%ときわめて高かったようです。「高かった」と過去形で書けるとおり、幸いなことに、天然痘は人類史上初めて撲滅に成功した感染症ですが、治癒しても醜い瘢痕(あばた)が残ってしまうこともあって、かつてはひじょうに恐れられていました。 

 たとえば、明治時代を代表する大作家の夏目漱石も罹患者の1人でした。正確を期すと、漱石の場合は、3歳のころに、受けた種痘(天然痘の予防接種)がうまくいかなかったようです。可哀想に天然痘に罹患してしまい、かゆみに耐えかねてかきむしったせいで、鼻の頭に痘痕が残ってしまっていたのです。周囲から「一つ夏目の鬼瓦」と嘲笑されたこともあって、終生のコンプレックスになるほど気にしていたらしく、顔写真を撮らせたときは、必ず修正させていたといいます。

 16世紀の前半期に、南米のインカ帝国が滅亡した原因も、じつはスペインの軍事力ではなく、天然痘だったと推測されています。わずか168名の兵士と大砲一門に馬27頭というスペイン軍の力では、いくらなんでも無理です。ところが、スペイン人によって持ち込まれた天然痘は、免疫をもっていなかった人々に襲いかかり、わずか数年間でインカ帝国人口の60~90%を死に追いやってしまったのです。

 18世紀の中頃のアジアでも似たことが起こっています。清にとって最大の抵抗勢力だったオイラト(モンゴル西部の遊牧民集団)が、清の軍隊による制圧にくわえ、かれらによって持ち込まれた天然痘の蔓延によって、ほぼ絶滅してしまいました。

 

仏教と天然痘はいっしょに伝来

 日本でも何回も大流行して、歴史を大きく変える原因になったことすらあります。天然痘は典型的な外来の感染症で、朝鮮半島を経由して大陸との交流が盛んになった6世紀の中頃に、最初の大流行がありました。

 6世紀の中頃といえば、欽明天皇の時代に、日本に朝鮮半島の百済から仏教が伝えられた時期と重なります。不幸なことに、その直後に得体の知れぬ感染症(疫病)がひろがり、多くの人々が死にました。このときの感染症の正体は、『日本書紀』の「瘡(かさ)が出て死ぬ者があとを絶たない。その死にざまは生きながら焼かれるようであり、その痛苦は打たれて粉々にされるようである」という記述から、天然痘の可能性が指摘されています。

 つまり、仏教は天然痘といっしょに、日本に伝来したらしいのです。この未曾有の事態に、物部氏を中心とする勢力は、外来の仏教を受容し古来の神々をないがしろにした神罰だと強硬に主張し、廃仏派の立場から、蘇我氏を中心とする仏教の受容に熱心な勢力を崇仏派とみなし、激しく対立したというのが通説です。

 ただし、近年の研究では、物部氏を中心とする勢力も仏教そのものを否定していたわけではなく、私的に崇拝することは認めていた証拠が出ています。かれらは、蘇我氏を中心とする勢力が、仏教を国家祭祀の対象とすることに反対していたのにすぎないから、廃仏派という表現はあたらないとみなす研究者もいます。また、蘇我氏が神事を軽視していたわけではない事実も明らかになっています。要するに、単純な廃仏・崇仏という問題ではなく、その裏に政治的な権力闘争がかかわっていたので、騒動が拡大したというのが実情のようです。

 さらに重要な事実は、このころの支配階層の人々は、仏教を外来の霊験あらたかな神々を祀る宗教と理解していた点です。当時の用語でいえば、「蕃神(あだしくにのかみ)」あるいは「今来神(いまきのかみ)」です。つまり、仏教の理念や思想はほとんど理解できず、もっぱらご利益を期待できる神々の宗教として受けいれようとしていたのです。もっとわかりやすくいえば、古神道vs仏教という対立ではなく、日本在来の神々崇拝vs新来の異国の神々崇拝をめぐる対立だったのです。

 ともあれ、欽明天皇も最有力の軍事氏族だった物部氏の主張は無視できず、やむなく仏像を破壊し、寺院を焼却することを黙認しました。ところが、今度は欽明天皇の皇居が、青天で雷も鳴らなかったのに、突如として火災を生じてしまいました。この事態に欽明天皇はかなり狼狽したようで、今の大阪湾に流れ着いた霊木から仏像を彫らせ、吉野の寺に祀らせたりしています。このとおり、姿勢が右に左に揺れ動いていて、どうやら定見はなかった様子です。

 

天然痘が東大寺の大仏をつくらせた?

そうこうするうちに欽明天皇は崩御し、敏達天皇が即位しました。敏達天皇はどちらかというと、仏教に否定的だったようです。敏達天皇14年(585)に、蘇我馬子が寺を建て仏を祀ると、時を置かず、疫病が発生したため、物部守屋の献言を採用して、仏教禁止令を出し、仏像と仏殿を焼却させています。

 すると、天皇自身が感染症に罹患し、薬石効なく、まもなく崩御してしまい、皇太子がいなかったので、異母兄弟の用明天皇があとを継ぎました。このとき敏達天皇を死に至らしめた感染症も、天然痘だった可能性があります。

 用明天皇は、先代の敏達天皇とちがって、仏教に好意的な政策を展開しました。ところが、用明天皇もまた、在位わずか二年足らずで天然痘に罹患し、あっけなく崩御してしまいました。仏教に対して好意的であろうが否定的であろうが、まったくおかまいなく、天然痘は人々を苦しめつづけていたのです。

用明天皇のあとを継いだのが、妹の推古天皇。その推古天皇の摂政として活躍したのが聖徳太子です。やがて蘇我氏と聖徳太子が、敵対していた物部氏を滅亡させ、日本に真の意味で仏教を定着させたことは、ご存じのとおりです。

しかし、天然痘の脅威は、まだまだ続きました。

 奈良時代中期の天平年間(735~727)に大流行したときには、総人口の25~35%に相当する100~150万人が死亡したと推定されています。さらに政権中枢にいた藤原氏の四兄弟が相次いで死去し、その間隙を縫うように、政敵だった橘諸兄が政権を握ったのでした。当時の常識では、こういう惨事が起こる原因は、為政者に徳がないからとみなされていました。責任を感じた聖武天皇は仏教にあつく帰依し、仏教による救済を願って、東大寺の大仏建立を思いたったのです。ですから、天然痘の大流行がなければ、東大寺の大仏は造立されなかったかもしれません。

 もっとも天平年間の大流行は、日本人のかなりの部分に天然痘の免疫を獲得させた形跡があり、以後は、天平年間ほどの大流行は起こりませんでした。文字どおり、「禍福はあざなえる縄のごとし」です。新型コロナウイルスについても、人口の大半が罹患して、免疫を獲得できれば、普通のインフルエンザ程度の感染症に落ち着くといわれていますが、いったいいつになるのか、それが大問題です。

 

ペストが宗教改革をもたらした?

 感染症が宗教にあたえた影響という点で、最も有名な事例の一つは、14世紀の中頃から15世紀の初め頃に、ヨーロッパをゆるがせたペストの大流行です。ペストには何種類かがありますが、中でもリンパ節が冒される腺ペストは、致死率が60~90%に達します。主にペストに罹患した人間あるいはクマネズミについたノミによって媒介され、全身の皮膚が内出血によって紫黒色になるので、「黒死病」とも呼ばれ、非常に恐れられました。

ヨーロッパでは1348年~1420年にかけて大流行し、域内全人口の30~60%が死亡したと推定されています。このときの大流行は、いわゆるグローバリゼーションがもたらしたのではないか、という説も提示されています。

 このときのグローバリゼーションは、「モンゴルによる平和(パックス・モンゴリカ)」によって実現しました。北アジアの片隅から勃興した騎馬民族のモンゴル族が、チンギス・カンをはじめとする優れた指導者にひきいられた強大な軍事力を背景に、すこぶる短期間に、東は中国から西はヨーロッパまでを支配下に置いた結果、ユーラシア大陸をかつてなかったくらい自由に行き来できる情勢が生まれたのです。

 ただし、その展開は良いことばかりではありませんでした。ペストに罹患した人間やクマネズミについたノミまでが、東西を自由に行き来できるようになり、もともとは中央アジアで発生したペストがユーラシア大陸の全域に広がってしまったらしいのです。

このときは、世界の総人口4億5000万人のうち、約1億人が死んだと推計されています。その衝撃は甚大で、社会構造を激変させたほどでした。東アジアでは、モンゴルが建国した元の人口が3分の1にまで減少してしまい、滅亡の一因になったという研究があります。

 ヨーロッパが受けた衝撃はもっと激烈でした。なにしろ30~60%が死亡したというのだから、当然です。人口の減少は労働人口の減少を招き、農奴に頼っていた荘園制が成り立たなくなりました。地域によっては、農業の中心が人手のかかる穀物生産から、人手のあまりかからない羊の放牧に移行しました。ユダヤ人のせいでペストが流行したというデマが各地で広まり、ユダヤ人に対する迫害が横行しました。魔女狩りも始まりました。

 しかし最大の影響を受けたのは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会だったのです。これほどの悲劇を前に、何もできなかったという人々の声が、カトリック教会の権威を根底からゆるがしたからです。ペストの大流行から100年を待たず、カトリック教会に叛旗をひるがえす宗教改革運動が勃発し、プロテスタントが誕生したのは、決して偶然ではありません。

 

ハンセン病も梅毒もグローバリゼーションの副産物

 ペストが大流行する前はハンセン病が、大流行していました。ハンセン病はもともとは熱帯地方の病気だったようですが、聖地エルサレム奪回に出掛けた十字軍がエジプトあたりから持ち帰ってしまったらしいのです。

日本でもハンセン病は、現代までつづいた難病でした。『日本書紀』巻廿二を読むと、早くも飛鳥時代に、ハンセン病と思われる記述が見出せます。推古天皇元年(593年)に、聖徳太子が飛鳥に『四天王寺四箇院』を建立しているのです。

 以来、奈良時代から鎌倉時代まで、ハンセン病の援助はもっぱら仏教によってになわれていました。大阪の四天王寺には中世以降、ハンセン病に罹患した人々があまた暮らしていました。中世を代表する物語の『小栗判官』は、そのころ「業病」とみなされていたハンセン病に罹患した主人公が、熊野権現と熊野の温泉のおかげで病を癒したという内容であり、一遍を祖とする時宗の僧侶たちによって創作され、語り伝えられてきた歴史があります。

 ペストの次に大流行したのは梅毒でした。この病気は、アメリカ大陸の先住民のあいだに存在していた感染症と推測されています。欧米人で初めてアメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブスの率いた探検隊員が、アメリカ大陸に上陸した際、原住民の女性と交わって感染し、スペインに持ち帰ってしまったようです。

 その後、イタリア征服に出掛けたフランス軍の傭兵としてイタリアに駐留したスペイン兵が、フランス兵に感染させ、そのフランス兵がアルプスの北方に持ち帰り、さらに大航海時代の波に乗って、またたくまに全世界に広まってしまったのでした。ということは、これもグローバリゼーションの副産物にちがいありません。

 日本には戦国時代の後期に、いわゆる南蛮貿易の担い手として渡来したポルトガル人やスペイン人によって持ち込まれ、またたく間に広がりました。黒田孝高(官兵衛)をはじめ、加藤清正、前田利長、浅野幸長など、戦国時代を代表する武将たちが梅毒で死んでいます。

 江戸時代から明治前半期まで、日本人の死亡原因の第一位は梅毒だったという説があります。「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ」とうたわれた群馬の草津温泉が大いに繁盛した理由は、ほんとうはハンセン病と梅毒に効くとされたからでした。江戸は男女比が5:3と、男性が圧倒的に多かったこともあって、遊郭や色街、あるいは岡場所と呼ばれる性愛中心の娯楽の場が発達し、梅毒の感染源になっていました。そのため、町民の大半が罹患していたという説すらあります。

 かつて「国民病」とか「亡国病」と呼ばれて恐れられた肺結核の蔓延は、むしろ明治維新以降の近代化の過程で生じています。劣悪な環境下における人口の密集化、工場や軍隊への大規模な動員などが、蔓延の原因でした。この点では、今回の新型コロナウイルスによる肺炎と共通する要素があります。

 

病気治しと宗教

以上にあげた実例のとおり、宗教の栄枯盛衰が、病気、とりわけ感染症の大流行と、切っても切れない関係にあったことは、歴史が証明しています。結論から先に言ってしまえば、宗教は病気を癒すことによって繁栄し、逆に病気を癒やせないことによって衰退してきたのです。

宗教が病気を癒すことによって勢力を拡大した実例は、開祖や聖人と呼ばれた人物の多くが、病気治療によって有名になった事実から証明できます。たとえばイエス・キリストの言行録ともいえる『新約聖書』を読むと、イエスは多くの人々を病気から救っています。病気の種類はさまざまで、悪霊退治のような精神的な領域もあれば、婦人病のような生理にまつわる領域もあります。中には『ルカによる福音書』や『ヨハネによる福音書』に記される「ラザロの復活」のように、死人を蘇生させたという伝承まで書かれています。

イスラム教徒でありながら、イスラム世界のみならず、ヨーロッパのキリスト教世界からも、イスラム教が生み出した最高の知識人、「第二のアリストテレス」と讃美されるイブン・スィーナー(980~1037)は、イスラム教神秘主義の大哲学者であるともに、当時としては世界最高峰の医学者でもありました。かれがヨーロッパの医学におよぼした影響は絶大です。著作の『医学典範』は、ヨーロッパ中世はもとより、地域によっては一七世紀まで、医学の教科書として使われた事実が、なによりの証拠です。

 仏教の場合も同じです。ブッダが直接、病人を治療したという話はないものの、ブッダの説法がインド医学の病因論・治療論にもとづいているという指摘があるのです。典型例は「十二因縁」です。人が迷いに惑わされたまま死ななければならない原因を、「無明」から「老死」に至る十二の過程として提示し、根本原因が「無明(根源的な無知)」にあることをあきらかにして、「無明」の克服こそ悟りへの道と説いています。また初期仏典には、薬剤の製法はもとより、脳外科手術と思われる記述すら見出せます。

 

日本仏教と医学

 日本に伝えられた仏典、たとえば奈良時代によく使われていた『陀羅尼集経』などの中にも、インドのアーユルヴェーダ医学や中国の漢方にもとづく薬剤の製法や具体的な治療法が、思いのほか詳しく書かれています。興味深いことに、伝統医学の研究者から、これらの処方の中には、実際に効き目のある例も少なからずあると報告されています。

 今なお使われているアーユルヴェーダ医学や中国の漢方の成立が古代にまでさかのぼり、しかも古代や中世では仏教僧こそ先端的な知識のほとんど唯一の持ち主だったことを考えれば、なんら不思議ではありません。江戸時代になっても、杉田玄白や高野長英といった医学者が法体といって、頭を僧侶のように剃りあげていたのは、その名残といいます。

 日本に初めて正式な戒律を伝えた鑑真(688~733)は、『鑑真秘方』という医方の著作があるくらい、薬学に通じていました。

 真言密教の祖、空海(774~835)も薬学に通じていて、著書に『本草』や『太素』など、中国の医学書をよく引用しています。ちなみに、空海は唐に留学するにあたり、当初は「薬生」、すなわち薬学研究者として登録していたという記述が、平安時代前期の文献に残されています。

 このように医学を重視する姿勢が、空海の衣鉢を継ぐ真言密教系の僧侶に顕著なことは疑いようのない事実です。その証拠に、古代から中世の日本で医学に通じた僧侶、すなわち「僧医」のほとんどが真言密教系なのです。

 たとえば、平安末期から鎌倉初期に京都の政界を代表する人物だった九条兼実は、仏厳という高野山系の真言密教僧からたびたび療治を受けています。鎌倉後期に奈良の西大寺を拠点に、戒律の復興を実践した真言律宗の叡尊(1201~1290)と忍性(1217~1303)は全力をあげて病人の救済につとめ、欧米の医学史研究者からも高い評価を受けています。

 とりわけ忍性は弘安十年(1287)に、鎌倉近辺で疫痢が大流行したとき、拠点としていた極楽寺の境内に恒常的な病屋として鎌倉桑谷療養所を開設しています。以来20年間に46800人を治療し、そのうちの5分の4にあたる人々の生命を救ったことが、『元亭釈書』という書物に記されています。この割合はそのころの医療水準を考えるなら、驚異的ですらあります。

 叡尊を師として出家した梶原性全(浄観房 一二六六~一三三七)は、極楽寺において医療活動を行うとともに、中世としては最高次元の医学書を二冊も書きあげ、この時代における最高の「僧医」という評価を得ています。

 山野を修行の場としてきた修験者(山伏)たちが、山野草に関する豊富な知識をもち、生薬を中心に薬学に通じていたことはよく知られています。現に、金峯山寺の門前にある店などで売られている「陀羅尼助」は、修験道がいかに深くこの領域にかかわっていたか、を教えてくれます。

ところが、室町時代後期以降になると、「僧医」を輩出する主な宗派が、密教系から禅宗系へと変わっていきます。日本医学中興の祖として「医聖」とたたえられる三人のうち、田代三喜(一四六五~一五四四)と曲直瀬道三(一五〇七~一五九四)は臨済宗の出身。永田徳本(一五一三~一六三〇)は修験道の出身ですが、田代三喜に師事して学んでいます。

 その背景には、古代以来の貴族に代わって支配階層となった上級武士層の多くが、「有事に際してうろたえないように、心身を鍛錬できる」禅宗に帰依したことがあったようです。また、禅宗は中国生まれの宗派で、中国文化の伝達者でもあったので、中国医学すなわち漢方を学ぶには、都合が良かったことも関係していそうです。

 

「祈り」は有効か?

ただし、致死率が圧倒的に高い大規模な感染症の発生に、宗教がなかなか対処できなかったこともすでに指摘したとおりです。その結果、宗教が衰退する原因になったことも疑いようがありません。

 それでも科学、特に医学が未発達な段階では、宗教以外にすがるすべがなかったから、宗教の地位はまだ安泰でした。しかし、近代的な医学が発達してくると、そうはいかなくなります。一般の人々にとって、同じ科学でも、物理学や化学などは縁遠いでしょうが、生死にじかに関わる医学に限ってはとても身近だからです。

 わけてもペニシリンを筆頭に、抗生物質が使われるようになり、それまで不治とされたペストやハンセン病や肺結核から生還する人々がつぎつぎに現れると、状況は一変しました。こうして、人の肉体を病気から救うのは、宗教ではなく、医学の役割になったのです。

 というわけで、いまさら人命を救う役割を科学と争ったところで、意味はないと思います。むしろ宗教の原点に帰るべきではないでしょうか。

 では、宗教の原点とは何か。見解はいろいろあるでしょうが、「祈り」が有力な候補であることに疑いの余地はありません。「祈り」のない宗教はありえないからです。

 では、「祈り」とは何か。これまた見解はいろいろあるでしょう。そもそも、キリスト教やイスラム教のような一神教の「祈り」と仏教の「祈り」が同じとは思えません。

 一神教の場合、「祈り」は全知全能の超越者に対する「請願」というかたちをとります。わかりやすくいえば、徹底的に神にすがり、自己の運命を含むすべてを神にゆだねるのです。

 しかし、原則として全知全能の超越者を認めず、因果応報を説く、いいかえれば徹底的な自己責任論を説く仏教の場合、「祈り」はおのずから自発的な行動への誓い、すなわち「誓願」というかたちをとります。「請願」と「誓願」では、「せいがん」という発音は同じでも、意味は一八〇度違うのです。

特に大乗仏教の場合は「利他行」、すなわち他者救済こそ自己救済の唯一のすべに他なりません。したがって、「祈り=誓願」は他者のためになされることになります。

 ここで、「祈り」が有効か否かを問う必要はないのです。「祈り」は宗教の専権事項であって、他の領域からあれこれ言われる筋合いはないからです。

 もちろん、科学的な実験によって、「祈り」をはじめ、もろもろの宗教的行為の効用を検証することを全面的に否定するつもりはありません。時と場合しだいで、試みても良いでしょう。

 しかし、この方向にこだわりすぎると、問題が生じます。科学によって宗教の効用を証明してもらうという事態におちいり、ついには宗教が科学に屈服することにつながりかねないからです。これは宗教の自己破産にほかならないから、よくよく考えておく必要があります。

 

「死は平等」は嘘である

 人はよく「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言います。特に宗教にかかわる者は、永遠の真理でもあるかのように、言いたがります。

 しかし、「死は平等である」は嘘です。「死の前には金持ちも貧乏人もない」も真っ赤な嘘です。現実には、死は不平等であり、死は権力や経済力によって大きく左右されています。

「生命の値段」という表現は不遜もいいところで、私は大嫌いですが、話をわかりやすくするために、あえて使います。

 死が平等でないということは、「生命の値段」が異なるということです。

 実例をあげます。日本などの先進国では、数千万円から億単位のお金がかかる治療が認可され、現に実行されています。その一方で、開発途上国では一つが一〇〇円のアンプルが買えないために助かるはずの生命が、毎日のように、たくさん失われています。

 早い話が、先進国と発展途上国とでは、「生命の値段」がいちじるしく異なっているのです。これは歴然たる事実です。

 アメリカのような先進国でも、人種や職業によって、富裕層と貧困層によって、新型コロナウイルスによる肺炎のもたらす致死率に、いちじるしい差が生じているとたびたび報道されているではありませんか。

こんな状況で、「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言えますか。そして、こんな状況がつづくかぎり、死は不平等でありつづけます。誰が考えても、すぐわかることです。

では、どうするか。申しわけありませんが、私にも、いますぐ実践できる具体的な解決策はありません。

 ただ、最低限できることはあると思います。少なくとも、宗教にかかわる者は、安易に「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と口にしないことです。次に、まことに残念ながら「生命の値段」にいちじるしい差がある事実を、多くの方々に知っていただくことです。一般的な通念とはまったく逆で、耳障りの極みですが、それが、真の意味で、死を平等にするために、絶対に必要な最初の一歩だからです。

 

電話による「声かけ」のすすめ

ここからは、住職という立場にある方が対象になります。

 融通念仏宗の宗祖、良忍上人(一〇七二~一一三二)は「念仏を唱えることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」と説きました。「祈り」も同じです。「祈ることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」はずです。

だから、一箇所に集まって、皆で祈れば良いのですが、今回は、残念ながら、それができません。たびたび報道されていますとおり、韓国のキリスト教会やイランのモスクに大勢の人が集まって礼拝したことで、爆発的な感染が生じてしまっています。

 そこで、提案したいことがあります。それは「声かけ」です。指導的な立場にある方から、信者さんたちに、ぜひ「声かけ」をしていただきたいのです。

 この発想の原点は、以前、チベット旅行にご一緒したお医者さん(甲状腺癌治療の世界的な権威)から、退院された患者さんたちとのコミュニケーションを、どうとったら良いか?と尋ねられたことにあります。癌治療は予後がとても大切なのに、退院すると、それっきりになってしまうケースがあり、悩みの種だとおっしゃったのです。

 そのとき私が提案したのは、病院に勤務しています看護師さんたちに、退院された患者さんたちに、手紙を定期的に書いてもらうという方法でした。この方法は実践してみると、けっこううまくいったようです。とりわけ、一人暮らしの方には大好評だったと聞きました。

 今回の場合、濃厚接触は厳禁なので、直接「声かけ」はできません。しかし、文明の利器を使えば、なんとかなります。具体的にいえば、電話による「声かけ」です。

 常日頃、尊敬しています方から直接、電話をいただけば、信者さんたちは、驚くとともに、必ず喜ぶと思います。

 その際、ぜひ、「あなたのために祈っています」とおっしゃっていただきたいのです。できれば、電話口で般若心経や真言や陀羅尼や念仏をいっしょにとなえ、「祈る」ように、すすめていただきたいのです。じつは私に知人に、自坊であろうと、出張先であろうと、どこにいても、似たことをすでに実践しています方がいて、信者さんたちから絶大な信頼を得ています。

 生の声は文字よりも、はるかに大きな力を秘めています。文字では伝わらない切実な思いも、生の声なら伝えられます。最近のスマートフォンや携帯電話は音質が飛躍的に向上していますから、なおさらです。

 信者さん一人ひとりに電話するのは、手間暇かかります。面倒でもあります。しかし、その効用は私たちが想像していますよりも、ずっと大きいはずです。

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